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冷たく,厳しい事実 #今年読んだ一番ショックな論文

というわけで,選考外ですがカレンダーが空いていたのでこの記事を書いてみます.

 

宇宙物理学者が長らく用いていた仮定が間違いであったことが示されたこの論文です.

 

Statistical ortho-to-para ratio of water desorbed from ice at 10 kelvin | Science

 

ショッキング過ぎたので,英語で記事にもなっています.

phys.org

 

宇宙はみなさんご存知の通り低温なので,星間物質や彗星などにある水は氷として存在する.氷の核スピン異性体のオルソ・パラ比は,その氷の生成時の温度を反映していると長らく信じられ,観測した天体や星間物質の化学的歴史を反映しているとされてきた.これを元に現在まで宇宙観測結果の解釈・議論が進められてきた.しかしながらこれは間違いだよ,というのを指摘したのが本論文である.

 

 

1.背景

 

水のオルソ・パラ比(OPR)は常温ならば3を示すが,彗星の尾などのOPRは2-3を示していたことから,宇宙屋さんはこれが氷形成時のスピン温度の手がかりと考えていた.典型的な値2.5はスピン温度が30 Kに相当し,これが46億年前の彗星形成時の温度を示すと考えられてきた.その他の天体からもOPRが3以下のものが見つかっていた.いろいろな天体に関してこういった観測がなされてきたが,このOPRとスピン温度の関係を立証する実験はなかった.

 

2.手法・結果

 

この論文の著者らは実験室において10 Kで生成した氷から光脱離した水分子のOPRを測定した.REMPI(Resonance-Enhanced Multi-Photon Ionization)という手法を用いて得られたスペクトルをスピン温度200 K( OPR = 3 )とスピン温度10 K( OPR = 0.3 )のそれぞれの条件において計算したスペクトルと比較したところ,前者のOPR=3のものと一致した.すなわち,10 Kで作った氷からでもOPRは3であり,生成時の温度を反映していない,という結果が出たということだ.

 

氷から脱離する際に分子が一回離れてまたくっつくなどすると分子は元のOPRを忘れてしまうが,そういうことはない事が著者の脱離メカニズムの研究からわかっている."kick out"と呼ばれるもので光が一旦氷のHだけを勢い良く乖離させ,そのHが他のH2O分子を蹴り出す,という仕組みだ.

 

そもそも氷の状態では水素結合によって分子は回転を自由に行うことができない.スピン温度の議論なども回転エネルギーなどの取り扱いをガス状態と同じではいけない.こういった仮定の危うさも論文では指摘されている.

 

3. まとめ

 

OPRから氷生成時の温度を求める,という手法自体が正しくないということがこの実験から示唆された.これは他の実験の再解釈を迫るとともに,数々の天体から3より低いOPRが観測されている理由について再考を求めるものである.謎が謎を呼んでいる状態だ.氷ではなくガス状態の水分子の寄与などが指摘されている.個人的にはこの分野の今後の動向がとても楽しみである.

#今年読んだ一番好きな論文2016

0.与太噺

珠玉の論文紹介がバシバシ続く中,ひとり分野も異端で申し訳ないが,下記の三論文について書いてみる.(一番好きな論文群,ということですが・・・)

 

 

大学で科学をやったなら水素原子は陽子と電子からできている,というのは皆聞いたことがあるかもしれない.水素は私たちが目で見ている宇宙の大部分を占めている.陽子という言葉に聞きなれなくても,宇宙を構成する大事な要素(building block)として陽子は意外に身近な存在なのだ.

 

しかしながら,その陽子の大きさすら人類はよくわかっていない,というのはご存知だろうか.今回はそんなお話だ.

 

The size of proton : Nature

Proton Structure from the Measurement of 2S-2P Transition Frequencies of Muonic Hydrogen | Science

Laser spectroscopy of muonic deuterium | Science

 

どれも同じグループの論文で,彼らにはCREMAコラボレーションという名前がついている.Charge Radius Experiment with Muonic Atoms (ミュオニック原子を用いた荷電半径実験)の略である.

 

分野としては素粒子物理学という分類になると思う.世界の構成要素は小さな粒子からなっていて,それらの性質を調べることで,我々が住む宇宙の成り立ちについて調べることもできる.ノーベル賞としてニュートリノ振動が脚光を浴びたのも記憶に新しい.

 

さて,この分野の研究者たちは山手線一周分もあるような加速器(粒子を加速させる装置)を用いて粒子をぶつけ,粒子の性質やその間の相互作用の解明を目指している,というのが一般向けの説明だ.CERN(スイス・ジュネーブ)という研究所のLHCという装置で新しい粒子(ヒッグス)がみつかった,というのも記憶に新しい.これも結局は高いエネルギーを持つ粒子をぶつけて,E=mc^2(アインシュタインで有名だ)の法則より質量を持った粒子(ヒッグス)に変わったということだ.基本的に高いエネルギーを使えば今まで誰も見たことのない現象がみれる,という至極単純な図式だ(そのエネルギーをhandleするだけの努力は生半可ではないので,単純というとその道の人にシバかれるかもしれない).

 

一方,CREMAの人たちはエネルギーを上げるという方向ではない.精密測定によって新しい物理を見出して行こう,という人たちだ.彼らはPaul Scherrer Institute(通称PSI.CERNと同じくスイスにあるとのこと)の加速器を用いてこの実験を行った.とてもユニークな手法で陽子の大きさを測ったのだが・・・

 

1. イントロ・背景

 

さて,陽子の荷電半径というのはどのくらいなのだろうか.CODATAという科学技術の定数をまとめている委員会があり,そこは4年に一度ほどまとめたものをreview 論文として出している.CREMAの実験が始まるまえ,CODATA2008を見てみると,0.8768(69) fmとなっている(括弧内の数字は1標準偏差分だ).fmはフェムトメートルで,10の-15乗メートル.実感がわかない数だ.相対的な精度も0.8%で,(所属分野によっては)なんだ精度良く測られているじゃん,と思ってしまう方もいるだろう.

 

この値は基本的には水素原子の分光と,陽子に電子をぶつけてその跳ね返りを測定したいくつかの実験から算出していた.ぶつけて跳ね返りをみればなんとなく大きさはわかりそうなので,前者の分光について補足しておく.水素原子とはすなわち陽子の周りを電子がまわっているわけだが,電子のエネルギーというのは,陽子の荷電半径によって異なる.大きさが違えば陽子が電子に及ぼす影響もわずかながら変化するからだ.また,電子のエネルギー準位ごとにこの影響の程度も変化する.陽子から遠くに電子がいるときより,近くを回っているときのほうが影響は大きそうだ,というのはなんとなく察しがつくだろう(これがすぐあとで大事になってくる).

 

水素原子は身近にあり,幾つもの精密な分光結果があった.また電子と陽子の散乱実験についても結果があり,それらを元にCODATA2008は値を決めていたわけだ.

 

さて,CREMAはもっと精度よく陽子の荷電半径を測定することを考えた.水素原子はやり尽くされていたのだが,彼らは新しい手法を提案した.それがミュオニック水素原子(muonic hydrogen)の分光だ.

 

ミュオニック水素は,陽子の周りにミュオンという粒子がいる水素そっくりの原子だ.ミュオン,というのは聞きなれない名前だが,電子と同じマイナスの電荷を持つ粒子で,重さが電子よりも200倍重く,時間が経つと崩壊して電子に変わってしまうという性質以外は全て電子と同じだ.この重さ,がキーワードになってくる.電子よりも重いミュオンは陽子の近くを回る.その分陽子の荷電半径への感度が高いので,水素原子の分光よりも高精度で荷電半径を決定できる,という寸法だ.

 

2.手法

言うは易し,行うは難し.ミュオニック水素の分光は生半可なことではできない.必要なレーザーの波長は6.01 µmで,分光に必要な条件を満たすレーザーはそれまでなかったのだ.すぐ後で述べるが,たくさんミュオニック水素を作っても,そのうち1%しか分光には使えないことも実験を難しくしている.信号を見るのに多くの時間が必要であれば,その間測定系を正しくコントロールしておかなければ精度を落としてしまう.

 

測定手順を述べると,加速器で作ったミュオンを1 hPaの水素ガス標的に打ち込み,ミュオニック水素を作る.下図にミュオニック原子のエネルギー準位のうち,必要なものを描いてある.ミュオニック原子が出来た時,だいたいのミュオンはnが14という高いエネルギー準位にいる.ここから瞬時にミュオンは下のエネルギー準位に落ちていくが,ほとんどは1S状態に落ちていく.一方,2Sに落ちるものはいて,こいつだけが分光に使える.

 

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 ここで一つ難しいことは,せっかく2Sに落ちてくれた場合でも,水素ガスとぶつかって1Sにどんどん落ちていく.水素ガス標的の圧力を下げればぶつかる頻度は減るが,今度は加速器から飛んできたミュオンを標的内で止め切るのが難しくなる.このトレードオフを解決するために強度のあるパルスレーザーが必要となる.

 

ミュオンが入射した900 ns後にレーザーを打ち込む.レーザーの周波数が2S-2Pの遷移に必要なエネルギーにあっていれば,遷移が起こる.レーザーの周波数は水蒸気の吸収から較正されている.2Pに行った後は8.5 psで1Sに落ちていくが,その時に出てくるX線を図ることで,2Sから2Pに行けたのかどうか判定ができる.周波数を変えながらX線の数を数えることで,分光ができる.

 

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3.結果とその後

そして無事分光に成功し,その結果から逆算した陽子の荷電半径は0.84184(67) fmであり,CODATAの値0.8768(69) fmよりも10倍精度がよいが,値は5σほどずれている.この2010のNature論文によって大きな論争を引き起こしたCREMAは引き続き2013のScience論文において2S-2Pのその他の副準位を分光した(説明が煩雑になるため省いたが,2Sも2Pも実は小さな分裂を起こしていて,2Sの分裂のうちある一つから2Pの分裂のうちある一つまでのエネルギーを測ったのが2010年,その他の分裂の組み合わせについても測ったのが2013年論文ということ).2013年の結果では0.84087(39) fmとなり,0.05%という精度で測定したのにもかかわらずCODATAの値とは7σずれている,という結果になった.

 

この結果は「陽子の半径問題(proton radius puzzle)」として取り上げられ,未だに解決されていない.可能性としては,おおざっぱに

1.水素の実験(あるいはその実験結果を陽子の半径に直す際の理論)が間違っている

2.ミュオニック水素の実験(あるいはその理論)が間違っている

3.物理学者の知らない新しい物理がそこに潜んでいる

の3つが挙げられる.極め付けは今年の論文だ.これはミュオニック重水素(陽子と中性子の周りを電子が回っているのが重水素,そのミュオン版だ)の分光を行い,それに同位元素シフトの効果を足してやるとやはり陽子の荷電半径がわかるが,やはりCODATAの値からずれている.物理学者の楽しい謎解きはまだまだ続きそうだ.

 

4. おまけ

CREMAは最初せっかく素晴らしいレーザーと分光装置を作っても遷移がみえなかったらしい.当たり前だ,今まで正しいと思っていた陽子半径をもとにエネルギーを計算し,その辺りに遷移があるとおもって探していたのだから.世界初の実験なので遷移が見えていない状況でも何か見落としているバグで見えていないのか,それとも自分たちが正しいのか,という状況では精神的にかなりきつかったろうと思う.噂に聞いたレベルだが,バグを調べ上げて,見えなかったという博士論文を書いた人間もCREMAにはいるらしい.そういう事を考えるに,CREMAのこの仕事は素晴らしいと思う.