やっぱり陽子の半径は小さい?

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この記事は「今年読んだ一番好きな論文2019大人版adevent calendar2019」の23日目の記事です。

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学生版もあるので見ていってください。

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今回取り上げる論文たち

今回取り上げる論文はこちらになります。

 

science.sciencemag.org

 

www.nature.com

 

Science,Natureにアクセス権がない方でもgoogle scholarからpdf版が入手できるかもしれません。

https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=A+measurement+of+the+atomic+hydrogen+Lamb+shift+and+the+proton+charge+radius&btnG=

 

https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=A+small+proton+charge+radius+from+an+electron–proton+scattering+experiment&btnG=

 

陽子の半径問題:発端 

世の中にある身の回りの物全ては小さなつぶつぶ、素粒子から出来ています。そんな素粒子の中でも陽子という身近な粒子に関するお話です。(例えば、「すいへーリーベ僕の船」と元素記号を挙げていく際の最初の水素原子は、陽子一個の周りに電子一個が束縛されています。通常の原子には必ず陽子が一個以上含まれています。)

素粒子物理屋さんの中には、これら素粒子の性質を正確に測定したいという人たちが一定数います。今回は陽子の半径(つまり大きさ)を正確に測定したいという人たちのお話です。

さて、これらの陽子の半径を測ってきたやり方は主に二つあります。一つは陽子に何かぶつけて跳ね返る様子を観測して大きさを測る方法。基本的には電子をぶつけるので、電子散乱と呼ばれています。二つ目は先ほどの水素原子のエネルギーを測る方法です(水素分光と呼びます)。水素原子の中の電子がとある状態(この状態のことを準位、と呼びます)から異なる状態に飛び移るときのエネルギー差を測定します。エネルギーは陽子の大きさに依存しているので、依存性を理論的に計算して、エネルギーの実験値から陽子の大きさを決定します。

両手法とも半径を求める精度はだいたい同じで、二つの手法合わせて10以上の実験がなされ、それらの実験の結果は概ねよく一致していました。米国の科学技術データ委員会(CODATA)は4年ごとに基礎物理定数の測定実験をまとめ、推奨値を発表していますが、2010年時点での推奨値は0.8775(51) fmというものでした(カッコ内数字は1標準偏差相当の不確かさを示しています)。

journals.aps.org

 

実は昔紹介したことがあるのですが、2010年にはこの状況が一変します。陽子の半径をより正確に測定できる第3の手法が開発され、この年実験結果が発表されました。この手法はちょっと不思議な原子を使った手法です。「ミューオニック水素」というこの原子は、水素原子によく似ていますが、陽子の周りにミューオンという聞きなれない素粒子が束縛されています。このミューオンは電子の仲間であり、電子と性質はほとんど同じですが、約200倍重いということ、100万分の2秒の寿命で崩壊してしまう、という2点が異なります。

この「200倍重い」というのが重要な点になります。普通の水素だとマイナスの電荷を持った電子がプラスの電荷を持った陽子に引き寄せられ、束縛して水素原子になった際に、ある一定の距離離れています。一方、同様にマイナスの電荷を持つミューオンが陽子と束縛した際には、重い分電子が捕まった際よりも陽子の近くにいる事になります。近くにいる、ということはエネルギーが陽子の半径に依存する度合いもより大きくなる事になります。そのため、エネルギーを測った時に陽子の半径により敏感な実験を行うことができます。

こういった観点からミューオニック水素のエネルギーを測ることは水素原子を用いる際に比べてより精度よく陽子の半径を決める手法だと前世紀には知られていましたが、レーザー技術の発展により、実験がなされ最初の結果が発表されたのは2010年になってからでした。

 

さて、彼らは実験の結果0.84184(67) fmという値を得ます。これはCODATAの値0.8775(51) fmよりも10倍近く精度が良いというだけでなく、当時のCODATA推奨値から4%近く陽子が小さい結果を示しています。3年後には同じ実験グループがより精度良く陽子の半径を測定し、これらの実験事実が論争を巻き起こします。

www.nature.com

 

この陽子半径の測定手法による結果の食い違いは「陽子半径問題」と呼ばれ、「今までの電子散乱・水素分光の両実験が間違えている」「ミューオニック水素の実験が間違えている」「陽子の半径を求める際に用いる理論計算が間違えている」「理論も実験もあっているが、ミューオニック水素だけに効く我々の未だ知らない粒子の効果によるものである」といった全ての可能性が探られ、いくつもの理論的・実験的研究がなされました。

 

昨年までのまとめ

「陽子の半径を求める際に用いる理論計算が間違えている」という点について、昨年までに多くの理論家による理論の再検証・計算が行われ、未だ決定的な間違いは見つかっていません。また、ミューオニック水素の実験については、他の研究グループによる実験は行われていません。(ただし、ミューオニック重水素と重水素の分光が比較され、同様の「半径問題」が見つかっています。)

 

水素の分光・電子散乱は複数の追試験及びデータの再解析が行われました。パリのグループは昔用いた実験装置を改良して水素分光を行い、2010年以前の水素分光結果に近い値を得ました。

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また、ドイツマインツのMAMIグループは電子散乱実験を行い、これも以前の値を支持する結果を得ました。

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しかしながら、ドイツマックスプランク研究所のグループが行った水素分光の結果はミューオニック水素の結果と無矛盾な結果を得ました。彼らは実験系に水素原子を導入する手法を工夫する事で今までの実験と異なった手法での実験を行いました。

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追試さえも食い違う結果を出したことで、この議論はさらに注目を浴びます。更なるデータが必要とされ、特に従来の実験と異なる手法での検証が期待されてきました。特に、電子散乱では、電子が陽子にガツンとぶつかるのではなく、優しくぶつかった際のデータ(難しい言葉で言うと、運動量移行が小さいデータ)が必要であることが再認識されました。こういったアイデア自体は昔から存在していたが難しい実験を、実行に移す研究グループが出てきました。

 

今回の論文

さて、今回の論文についてです。今年も複数の結果が発表されましたが、Scienceの論文がカナダ・トロントのグループによる水素原子分光の結果、Natureの論文がアメリカのPRadというグループによる電子散乱実験の結果です。

トロントのグループは従来のほとんどの水素分光とは異なり、ある特定の状態と状態の間のエネルギー差(ラムシフトという)を測定しました。簡単のため割愛していましたが、他のエネルギー差を分光した際には陽子の半径を算出するために2つのエネルギー差を測定する必要があるのですが、このラムシフトの測定は単独で陽子の半径を決定可能です。また、彼らは従来よく用いられていたSeparated Oscillatory Field(SOF)法を改良したFrequency-Offset Separated Oscillatory Field(FOSOF)法という手法を用いてより精度の高い分光を行いました。

アメリカのPRadは先ほど述べた電子が陽子に優しくぶつかったデータを取得しました。もちろんこのデータを取るのも難しく、高度な開発が必要な検出器や陽子標的を用いて実験が行われました。

 

今年の結果を含めた陽子半径の測定結果のまとめを下に示します。丸が水素分光、四角が電子散乱の結果です。白抜きは過去の実験の平均を示しています(水素分光OLD H、電子散乱OLD e-p)。この二つの手法の結果を加味した2010年時点でのCODATAの推奨値が青帯で示されています。バツ印のミューオニック水素の結果を受けた追試が黒丸・黒四角で示されていますが、同じ測定手法でも実験によって結果が食い違っていることがわかります。

 

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測定結果のまとめ図。測定の不確かさをバーあるいは帯の幅で表した。白丸は2010年以前の水素分光の実験(複数の実験結果を平均したもの)。白四角は2010年以前の電子散乱実験の結果(同様に平均値)。これらの結果から2010年に科学技術データ委員会(CODATA)が推奨した陽子半径の値がブルーの帯で示されている。これに対してバツ印二つはミューオニック水素の測定結果。青帯より有意に小さい結果を示している。これを受けて追試された水素分光・電子散乱法による陽子半径の測定結果をそれぞれ黒丸・黒四角にて示した。近年の実験結果を受けて修正された最新のCODATAの推奨値を赤帯で示した。図は本文中に示した文献から筆者作成。

 

従来より小さい半径を支持する実験がミューオニック水素だけでないことからCODATAは最新の推奨値を大きく変更して赤帯で示された値にしています。ただし、この問題は収束したわけではなく、今後も多角的な視点から検証実験が行われることが期待されます。

 

最新のCODATAの推奨値は下記から検索することができます。 

Fundamental Physical Constants from NIST

 

あとがきにかえて:測定バイアスとブラインディング

以上、簡単に陽子の半径問題について紹介しましたが、やはり人間の先入観というのは精密測定を行う際には慎重に取り扱わなければならないなと感じました。素粒子物理学ではこういったバイアスに強い解析手法を取るのは当たり前で、今月もarxivにとある新しい実験でどのようにバイアスを避けて解析・測定を行うのかという論文が出ていました。

arxiv.org

 

解析としてブラインド解析(blind analysis)を用いるケースも多々あり、重力波実験で偽の信号を定期的に注入する話も有名ですが、例えば某実験では実験グループ内に独立して解析するチームが複数存在します。その実験ではとある数値を求めるのですが、理論値に近づく・遠ざかるような心理的要因を取り除くため、解析チームごとに異なる有限のズレを人為的に加えてからデータが各チームに与えられます。数値の絶対値自体があまり意味を成さない状態(目隠し/ブラインドをした状態)で解析手法・手順を各チームが吟味し、全てのチームの合意が取れた時点でズレの値が公表される、といった具合です。実験結果に予期しない影響が加わることを極力排除することで、より信頼性の高い実験を行うことが大事だと今回の陽子の半径問題を通じて改めて認識しました。